友人に誘われ、かの有名なJAZZの聖地(?)
【BLUE NOTE】に行った。
(BLUE NOTE TOKYO)
んで、incognito(インコグニート)という、
acid jazzの結構な古参バンドの生ライブを鑑賞。
(超うけうり)
(Incognito | インコグニート - UNIVERSAL MUSIC JAPAN)
何がスゴイって、
この迫力のバンドが、前方20メートルもないところにいて、
観客も数百名程度。
食事をしながら、時にはスタンディングで踊りながら、楽しめる。
なんて贅沢。
まあ、歌詞何言ってるのか、90%ぐらいは意味不明なのですが。。。
ミュージシャンの人の話を聞いていて、結構よく驚くのが、
その「オープンなマインド」である。
このバンドのリーダーの人が、こう言った。
「このgrooveのもとでは、国籍など関係がありません。
人生を愉しむことに、肌の色など関係ないのですから。」
(超意訳)
そもそも、バンドメンバー自体、超インターナショナル。
モーリシャス/トリニダードトバコ/イングランド/
スコットランド/ジャマイカ/フランス・・・等など。
こんな多種多様な人たちが、1つの創作を行っているのだから、
上記彼らのセリフも、ちょっと信じたくなる。
一見すると、当たり前に思うハナシではあるのだけれど、
これを「口で言う」というのは、
意外と勇気がいることだと思っている。
「音楽は世界共通です。」
これもまた、結構聞き飽きたセリフかもしれない。
「そりゃそうだ。」
これもんである。
でも、こんなコトバを発することができる、
その人のバックグラウンド。
コトバの奥底にある経験/体験に敬意を感じる。
それは、そう感じるべくして感じた、深い経験に縁るはずだから。
最近、
- ヒトが「語る」ということに、すごく敬意を感じたりする。
と、同時に、
- 自分が「語る」ことに、結構恐怖を感じたりする。
ヒトが語るその言葉の、「薄さ/厚さ」みたいなのを、
推し量るようになってきて、逆に、
- 自分のコトバに、芯は通ってるのか。
- 自分のコトバは、相手に響いているのか。
経験に裏打ちされないコトバは、きっと薄っぺらい。
そうだ。
自分のコトバの「厚み」の有無に、
恐怖を覚えているのかも。
「考えた以上のことは、話せない。」
こういった、局長の言葉がすごく重かったりするのです。笑