広告代理店から愛を込めて

心筋梗塞になった40歳広告代理店の人のブログ

孤独とか愛とかアナーキーとかパンクとか。

それはやはり夏で、どうにもならないくらい夏で、
僕は、たぶん夏休みのなかにいて、理由は忘れたけれど学校に行かなければならず、
その帰り道のことだった。
通学路の途中には、別にたいそうな由来もなさそうな神社があった。
神社の境内は鬱蒼とした木々に覆われていたけれど、
その神社に至る石段は、コンクリート製の味気ないもので、
要するにどこにでもありそうな神社でしかなかった。


なんということのない空間だった。
手入れする人もいない社は、蜘蛛の巣まみれで、柱は灰色にささくれ立っていた。
地面はといえば、まともに地面まで光が届かない状態で、
枯れ葉や枯れ枝、雑草などがまばらに散らばったなかに、
苔が汚らしくこびりついた申し訳程度の石畳があるばかりだった。


真夏とはいえ、比較の問題でいえば、そこは涼しい。
風が吹いて、木が、ざわざわと鳴っていた。
上を見ると、葉はどこまでも緑色で、
その緑色は、ばかげて青い空とはっきりとした境界線を作って、
とても解像度の高い写真のようだった。


美しい、ということを僕はそのときまで意識したことがなかったと思う。
いや、そのときだって言葉として「美しい」と思ったわけではない。
ただ、どうしようもなく、きれいだった。


この世界には美しいものが満ちている。
それは、とても深い納得であると同時に、なにか絶望的なものを連れてきた。

いまの僕は、それが孤独というものであることがわかる。


境遇だけ考えれば、僕はよほど子供のころから孤独であったといっていいと思う。
けれど、それは必然的に与えられた環境でしかなく、
そのことについて疑問は持っていなかった。
両親がそろっていて、両親がやさしそうな顔で子供を見守っていて、
子供は嬉しそうな顔をしている。
そんな家庭のほうがニセモノであり、ニセモノである以上、それはいつか壊れる。
むしろそう信じていて、自分のほうが不幸だということは考えなかった。
いまでもそれは変わらない。
僕の環境には、いくつかのものが欠落していたが、それは不幸とは直結しない。

本能という言葉は嫌いだし、
人に自由意志がある以上、そんな言葉で自分の行動を説明されるのは侮辱だと感じる。
だけど、そのとき僕が感じたことを、
ほかのどういう言葉で説明すればいいのか、いまだにわからない。


世界が美しいということを、僕は、たった一人で見つけた。
ただ一人きりで受け止める世界の美しさは、圧倒的で、凄惨ですらあった。
だれかと、分かち合いたかった。たった一人でいい。
手をつなぎ、一緒に空を見上げて、きれいだねと言い、それに答えてくれる声があれば。
そうすればこの美しさは、すべて祝福となる。

だから、どうか。たったひとりの、だれかが。

もちろん、願ったところでだれがあらわれるはずもない。
僕は、心臓の奥に刻み付けられるような深い納得と
、自分の存在がばらけてしまいそうな孤独のなかで、ただ、思った。

ああ、僕は一人だ。


このときの感覚は確かにいま現在の僕を規定しているけれど、ふだんは思い出すこともない。
その光景は、僕の原風景として固定されており、
特定の記憶と結びつかないようなかたちで、僕に意識されている。

 
14歳から20歳までの僕は、たぶん、黄昏のなかにいた。

http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090216


自分の中での深い思考や想いなど、
何億といるこの世界の人たちの頭の中にないはずなどなかった。


確かに、今自分が感じていることはあの日/あの時代に感じた気持ちとひどく近くて、
時々戸惑いすら覚える。
大丈夫か。進んでいるのか?という具合に。


なにかの“なか”にいたくない。
でも“先頭”でもいたくない。


どちらかといえば、“しんがり”タイプだと思う。
でもそれは、明らかに自己満足とか自己愛とかいうそれで。


いま、“なか”にいるのが有難すぎて、頼りがいがありすぎて、
逆に自分の孤独と無力さに気づかされる。