それはやはり夏で、どうにもならないくらい夏で、
僕は、たぶん夏休みのなかにいて、理由は忘れたけれど学校に行かなければならず、
その帰り道のことだった。
通学路の途中には、別にたいそうな由来もなさそうな神社があった。
神社の境内は鬱蒼とした木々に覆われていたけれど、
その神社に至る石段は、コンクリート製の味気ないもので、
要するにどこにでもありそうな神社でしかなかった。
なんということのない空間だった。
手入れする人もいない社は、蜘蛛の巣まみれで、柱は灰色にささくれ立っていた。
地面はといえば、まともに地面まで光が届かない状態で、
枯れ葉や枯れ枝、雑草などがまばらに散らばったなかに、
苔が汚らしくこびりついた申し訳程度の石畳があるばかりだった。
真夏とはいえ、比較の問題でいえば、そこは涼しい。
風が吹いて、木が、ざわざわと鳴っていた。
上を見ると、葉はどこまでも緑色で、
その緑色は、ばかげて青い空とはっきりとした境界線を作って、
とても解像度の高い写真のようだった。
美しい、ということを僕はそのときまで意識したことがなかったと思う。
いや、そのときだって言葉として「美しい」と思ったわけではない。
ただ、どうしようもなく、きれいだった。
この世界には美しいものが満ちている。
それは、とても深い納得であると同時に、なにか絶望的なものを連れてきた。いまの僕は、それが孤独というものであることがわかる。
境遇だけ考えれば、僕はよほど子供のころから孤独であったといっていいと思う。
けれど、それは必然的に与えられた環境でしかなく、
そのことについて疑問は持っていなかった。
両親がそろっていて、両親がやさしそうな顔で子供を見守っていて、
子供は嬉しそうな顔をしている。
そんな家庭のほうがニセモノであり、ニセモノである以上、それはいつか壊れる。
むしろそう信じていて、自分のほうが不幸だということは考えなかった。
いまでもそれは変わらない。
僕の環境には、いくつかのものが欠落していたが、それは不幸とは直結しない。本能という言葉は嫌いだし、
人に自由意志がある以上、そんな言葉で自分の行動を説明されるのは侮辱だと感じる。
だけど、そのとき僕が感じたことを、
ほかのどういう言葉で説明すればいいのか、いまだにわからない。
世界が美しいということを、僕は、たった一人で見つけた。
ただ一人きりで受け止める世界の美しさは、圧倒的で、凄惨ですらあった。
だれかと、分かち合いたかった。たった一人でいい。
手をつなぎ、一緒に空を見上げて、きれいだねと言い、それに答えてくれる声があれば。
そうすればこの美しさは、すべて祝福となる。だから、どうか。たったひとりの、だれかが。
もちろん、願ったところでだれがあらわれるはずもない。
僕は、心臓の奥に刻み付けられるような深い納得と
、自分の存在がばらけてしまいそうな孤独のなかで、ただ、思った。ああ、僕は一人だ。
このときの感覚は確かにいま現在の僕を規定しているけれど、ふだんは思い出すこともない。
その光景は、僕の原風景として固定されており、
特定の記憶と結びつかないようなかたちで、僕に意識されている。
14歳から20歳までの僕は、たぶん、黄昏のなかにいた。
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090216
自分の中での深い思考や想いなど、
何億といるこの世界の人たちの頭の中にないはずなどなかった。
確かに、今自分が感じていることはあの日/あの時代に感じた気持ちとひどく近くて、
時々戸惑いすら覚える。
大丈夫か。進んでいるのか?という具合に。
なにかの“なか”にいたくない。
でも“先頭”でもいたくない。
どちらかといえば、“しんがり”タイプだと思う。
でもそれは、明らかに自己満足とか自己愛とかいうそれで。
いま、“なか”にいるのが有難すぎて、頼りがいがありすぎて、
逆に自分の孤独と無力さに気づかされる。