広告代理店から愛を込めて

心筋梗塞になった40歳広告代理店の人のブログ

ex-Wieden & Keneddy John C. Jay

My Farewell.


In the future when history gives its perspective on the boldest
and most influential creative experiments of this era,
I believe that Wieden+Kennedy will deserve consideration for its place in the zeitgeist of culture and creativity…


One possible detractor could be the social bias that the agency has actually been too successful as a business,
or the fact that we are marketers.
So we will have to see if such accomplishments prove to be a negative in the populist and academic camps.


Clearly, the agency already owns a special position at the top of advertising and communications
but the extraordinary qualities and often quiet achievements by the agency surpass its many creative awards.
At its heart, this place was always more than advertising in its creative aspirations and vision.
The co-founders, Dan Wieden and David Kennedy,
dreamed of a place where people could simply meet their own personal potential,
a place where creative people could thrive through freedom and responsibility… a place of respect and trust.


Contrary to the creative swagger that the agency has earned, its many “Agency of the Year” awards,
and the legendary talent that have passed through its halls,
there is a spiritual side of the agency in Portland that gives it a soul unlike other organizations.
It is this unique DNA that the agency nurtures in new cultures and societies
while it has grown organically as an independent network.


Through its success and independence,
Wieden+Kennedy controls its future and has structured itself to prevent it from being sold to outside controlling forces.
If there is one defining truth at the agency,
it is that money is never more important than creativity and the future of its people.


That simple guiding force of independence has been the fuel for the agency’s growth,
business success and creative legacy.
It is why people make personal sacrifices to keep the culture alive and evolving.
It is why we are Wieden+Kennedy.


Once in an annual global management session in Brazil… we wanted to challenge our mission statement,
to redefine our raison d’état. Dan Wieden’s suggestion,
“Be the eye of the cultural storm.”
It was this concept that gave me the passion and energy to contribute to this extraordinary agency for over two decades.


On January 29, 2015, I said my final farewell in the atrium of Wieden+Kennedy.
It was an honor to stand with the agency one last time and an even greater honor to see them stand for me.


The future is next.
And it will be amazing for all of us.


John C. Jay
President of Global Creative
Fast Retailing Co.


https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10152691377127076&set=a.10151032517812076.419496.705672075&type=1&fref=nf&pnref=story

宣伝会議賞


2つ1次審査通ってたー。
うはーい。
初めてにしては上出来や。うん。笑
どんなコピー応募したんかメモみかえしたけど
何も覚えてないという。。。


ただ、メモをみるに、
徹夜してハイテンションで書いた企画書の言葉を
翌朝にみると、血の気がサーっとひくあの感じと似ている。。。

TheSoundYouNeed.


https://www.youtube.com/channel/UCudKvbd6gvbm5UCYRk5tZKA
http://thesoundyouneed.net/


なんだ。なにもんだこのUKのブランド。レーベル?ラジオ局?
セレクトとアートディレクションが、どストレートにカッコいい!

究極の愛とは、罪の共有。


ここ最近ずっと、Nのために、に影響されまくっている。


彼の罪を、私も受け入れる。
彼の罪を、私が受けとめる。
私の罪を、彼が受け入れてくれる。
一緒に、罪を抱えよう。
そばにいなくてもいい。
彼が幸せでいてくれれば、
それが、私たちの絆と愛だ。


それが、Nのために、で描かれている究極の愛らしい。
(まだ全話おわっていない。かつ、ぼくの想像記述なのでわからんけれどw)


愛だろ。愛。


わからんわ。愛。


10代のころは、恋のつぎに生まれるのが、愛なんだと思っていた。
でも、いまかんがえると、
中二病感がいなめないけれど、あれやそれやこれは、
恋というより愛じゃねーのか?という気もしてくる。


愛は、共有によって生まれるのか。
愛は、ぶつかりあって生まれるのか。
愛は、覚悟によって生まれるのか。


ただ人る思っているのが、
愛しあうということと、一緒に生活する、ということは、
必ずしも一致・一緒ではないんだ。
というのがちょっと感じてきている。


愛の形は人ぞれぞれだ。


なんてありきたりな言葉の意味が、少しわかったような気もする。


夫婦のつぎは、何になろう。


そんなことが思える日がくるといいなぁ。

幸せはUターンしてかえってくるのかもしれない。


自分のためにの満足感。誰かのためにの幸福感。
企画書に、こんな言葉をかいた。
びっくりしたのだけれど、
この言葉はAV女優の方のtweetで引用されていた。


この言葉がおなかの中でモヤッと残っていた。
何か、自分が知っておかなければならない、
理解しておかなければならない物事だと感じていた。


人間は欲張りだ。そしておそらく快楽主義だ。
満足感も、幸福感も、本来的には全部ほしいモノだと思う。
でも、この言葉には、満足感に対する否定のにおいが、少しする。

幸せが自分のことであるうちはたいした人生ではない、と私は思っています。
自分よりも大切な人を持つ人が増えたら、
世の中はもっと温かくなるのではないかとも思っています。

10代のぼくは、とにかく悲しかった。寂しかった。
悲しくて寂しい自分に、
少し背伸びをした服を手に入れたりして満足感を買っていた。
おそらく井の中の蛙であっただろうに違いないのに、
部活の中で中心の存在であることを誇りに、満足感を味わっていた。

大学生になると、世界は広かった。自分は、部分でしかなかった。
飾ることも、中心になる能力もなく、満足感を手に入れられなかった。


実は、社会人になってからも、同じだった。
世界は高校のときよりも、大学生のときよりも、広かった。
満足感なんてものは、ずっとなかった。そして、絶望していた。


でもいま、ぼく自身不思議だけれど、一定の幸福感を感じてきている。


ひょっとしたら、誰かを助けられているかもしれない。
ひょっとしたら、誰かを幸せにできているかもしれない。
そんなちょっとした感覚が芽生えているからかもしれない。


自分の円の中の満足感ではなく、
人の幸せをそっと支えてあげられているならば。
人の幸せをそっと願うことができているならば。
その人に幸福が実ればきっと、
その人経由で、自分に幸福がUターンしてやってくる。


ぼくの幸福はそうして実るのかもしれない。


ただ正直、もっとわがままにいきたい。何も気にせず主張と要求だけをしたい。
そんな強く黒く、熱量をもった気持ちがまだくすぶる。
その方が中長期的には、自分をハッピーにするんじゃないか、と思ってしまう。


でも、一旦、利己的に満足感に救いを求めるのはやめようかと思う。
ぼくはいつでも救いをもとめていた。
理解がほしかった。共感がほしかった。尊敬がほしかった。
それでぼくは満足感を消費してきた。


利他的な選択肢を選んでいくことが、
ひとつオトナらしい道なのかもしれない。


ただ、1つだけ薄く大きくある不安は、
本当に誰かを幸せにできているか、だ。
そこの確信や実感はもてるようになるものなのだろうか。

ぼくは後輩を部下にはできない。


先輩曰く。
「後輩が”デキる”という判断基準が、”使い勝手の良い道具かどうか”、で判断するやつがいる」と。


うむ。
側面的には、優秀な人ほど、
上位者の右腕として、適切な道具に徹することもできそう。


ただ、たしかに、「道具」というのは響きが悪い。
「使い捨て」というニュアンスが、その先輩の言葉にはあった。


本来的には、(というか自分が惹かれた先輩をロールモデルとすると、だけど)
上位者とは・・


●実績を持っている(大きなメインクライアントや、大きなビジネス的成功等)
●特徴的な長所/スキル/専門領域などがある
●マクロからミクロまで、仕事のディレクション(概念化・最適化・精緻化等)ができる


といった感じだろうか。(ほかにもいっぱいあるとおもうけれど)

あと、「道具」論に対する視点として、
●下位にいる後輩の、キャリアデザインまで視野に入れた仕事の振り方ができる。


というのが、個人的には大切だと思う。


よくいわれる、
「〜〜をしてくれ。」
ではなく、
「〜〜するために、〜〜をしてくれ」
と、目的を明確にしたほうが良い。

というのと近くて、
何のためにこの案件・この仕事を一緒にやるのか、を説明できるほど良いと思っている。


営業時代。
ぼくの師匠は、ぼくを「部下」ではなく、「戦友」として扱ってくれた。
共に戦う仲間なんだ、と認識させてくれた。


それは、当事者意識を生む。自分事を生む。姿勢を変える。
戦いのシナリオが、戦いの経験が、血肉になる。


組織論とかでいれば、まったく甘っちょろいのかもしれないけれど、
ぼくは後輩を部下にはできない。先生にもなれない。
けれど、「戦友」にはできます。
とそう答えるようにしている。