自分のためにの満足感。誰かのためにの幸福感。
企画書に、こんな言葉をかいた。
びっくりしたのだけれど、
この言葉はAV女優の方のtweetで引用されていた。
この言葉がおなかの中でモヤッと残っていた。
何か、自分が知っておかなければならない、
理解しておかなければならない物事だと感じていた。
人間は欲張りだ。そしておそらく快楽主義だ。
満足感も、幸福感も、本来的には全部ほしいモノだと思う。
でも、この言葉には、満足感に対する否定のにおいが、少しする。
幸せが自分のことであるうちはたいした人生ではない、と私は思っています。
自分よりも大切な人を持つ人が増えたら、
世の中はもっと温かくなるのではないかとも思っています。
10代のぼくは、とにかく悲しかった。寂しかった。
悲しくて寂しい自分に、
少し背伸びをした服を手に入れたりして満足感を買っていた。
おそらく井の中の蛙であっただろうに違いないのに、
部活の中で中心の存在であることを誇りに、満足感を味わっていた。
大学生になると、世界は広かった。自分は、部分でしかなかった。
飾ることも、中心になる能力もなく、満足感を手に入れられなかった。
実は、社会人になってからも、同じだった。
世界は高校のときよりも、大学生のときよりも、広かった。
満足感なんてものは、ずっとなかった。そして、絶望していた。
でもいま、ぼく自身不思議だけれど、一定の幸福感を感じてきている。
ひょっとしたら、誰かを助けられているかもしれない。
ひょっとしたら、誰かを幸せにできているかもしれない。
そんなちょっとした感覚が芽生えているからかもしれない。
自分の円の中の満足感ではなく、
人の幸せをそっと支えてあげられているならば。
人の幸せをそっと願うことができているならば。
その人に幸福が実ればきっと、
その人経由で、自分に幸福がUターンしてやってくる。
ぼくの幸福はそうして実るのかもしれない。
ただ正直、もっとわがままにいきたい。何も気にせず主張と要求だけをしたい。
そんな強く黒く、熱量をもった気持ちがまだくすぶる。
その方が中長期的には、自分をハッピーにするんじゃないか、と思ってしまう。
でも、一旦、利己的に満足感に救いを求めるのはやめようかと思う。
ぼくはいつでも救いをもとめていた。
理解がほしかった。共感がほしかった。尊敬がほしかった。
それでぼくは満足感を消費してきた。
利他的な選択肢を選んでいくことが、
ひとつオトナらしい道なのかもしれない。
ただ、1つだけ薄く大きくある不安は、
本当に誰かを幸せにできているか、だ。
そこの確信や実感はもてるようになるものなのだろうか。