広告代理店から愛を込めて

心筋梗塞になった40歳広告代理店の人のブログ

幸せはUターンしてかえってくるのかもしれない。


自分のためにの満足感。誰かのためにの幸福感。
企画書に、こんな言葉をかいた。
びっくりしたのだけれど、
この言葉はAV女優の方のtweetで引用されていた。


この言葉がおなかの中でモヤッと残っていた。
何か、自分が知っておかなければならない、
理解しておかなければならない物事だと感じていた。


人間は欲張りだ。そしておそらく快楽主義だ。
満足感も、幸福感も、本来的には全部ほしいモノだと思う。
でも、この言葉には、満足感に対する否定のにおいが、少しする。

幸せが自分のことであるうちはたいした人生ではない、と私は思っています。
自分よりも大切な人を持つ人が増えたら、
世の中はもっと温かくなるのではないかとも思っています。

10代のぼくは、とにかく悲しかった。寂しかった。
悲しくて寂しい自分に、
少し背伸びをした服を手に入れたりして満足感を買っていた。
おそらく井の中の蛙であっただろうに違いないのに、
部活の中で中心の存在であることを誇りに、満足感を味わっていた。

大学生になると、世界は広かった。自分は、部分でしかなかった。
飾ることも、中心になる能力もなく、満足感を手に入れられなかった。


実は、社会人になってからも、同じだった。
世界は高校のときよりも、大学生のときよりも、広かった。
満足感なんてものは、ずっとなかった。そして、絶望していた。


でもいま、ぼく自身不思議だけれど、一定の幸福感を感じてきている。


ひょっとしたら、誰かを助けられているかもしれない。
ひょっとしたら、誰かを幸せにできているかもしれない。
そんなちょっとした感覚が芽生えているからかもしれない。


自分の円の中の満足感ではなく、
人の幸せをそっと支えてあげられているならば。
人の幸せをそっと願うことができているならば。
その人に幸福が実ればきっと、
その人経由で、自分に幸福がUターンしてやってくる。


ぼくの幸福はそうして実るのかもしれない。


ただ正直、もっとわがままにいきたい。何も気にせず主張と要求だけをしたい。
そんな強く黒く、熱量をもった気持ちがまだくすぶる。
その方が中長期的には、自分をハッピーにするんじゃないか、と思ってしまう。


でも、一旦、利己的に満足感に救いを求めるのはやめようかと思う。
ぼくはいつでも救いをもとめていた。
理解がほしかった。共感がほしかった。尊敬がほしかった。
それでぼくは満足感を消費してきた。


利他的な選択肢を選んでいくことが、
ひとつオトナらしい道なのかもしれない。


ただ、1つだけ薄く大きくある不安は、
本当に誰かを幸せにできているか、だ。
そこの確信や実感はもてるようになるものなのだろうか。