芝居を観ました。
『失われた時間を求めて』
脚本・演出:長塚圭史
出演:長塚圭史、奥菜恵、中山祐一朗、伊達 暁、
http://asagayaspiders.net/阿佐ヶ谷スパイダースHP
非常に抽象的な内容で、無い頭にはムツカシカッタ。。
マルセル・ブルーストと、エドワード・オールビーの著作と関係があるらしいのだけれど、
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エドワード・オールビー(1)動物園物語/ヴァージニア・ウルフなんかこわくない (ハヤカワ演劇文庫3)
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いわゆる、【不条理劇】というやつなのだろうか。
・・・と、ずっと意味不明で過ごしてきたのだけれど、偶然以下のブログを見てこうゆうことか!?
と思ったので記事化。笑
<現代の全体>をとらえる一番大きくて簡単な枠組み / 須原一秀 - plaisir.genxx.com
たぶん、長塚氏は、
●現代社会を描こうとした。
●それも、現代社会の歪み(事件/格差/天災…)とかで、なんとなく陰鬱/閉塞した社会を。
●で、それに対する、彼らなりの一つの道を示した
のだと思うのです。
上のブログから引用すると、現代社会は、こんな状況です。
「哲学」は死んだ。
「哲学は死んだ」というのは、言い換えれば、
絶対的真理(絶対的に正しいものの見方・感じ方・考え方)はもはや見つからないということです。
わたしたちはケース・バイ・ケースで、場当たり的にその都度答えを探していくしかない。
「多種多様な意見の存在と、暫定的な解決策しかない状況を、がまん強く耐え抜く心を養成」するしかない
そして、
「心ある人々」は綺麗事を並べて現代社会の荒廃を批判する。
しかし、彼らは否定主義者であり、結局「半分の心しか持たない人たち」ということになる。
基本的には現代は、ほとんど理想的に事態は進行していると見るべきである。
だからといって、事態が理想状態に向かっているという保証はない。
「現代大衆社会」は予測の付かないブラックボックスであり、未踏のフロンティアだからである。
そこで、事態をコントロールするための工夫は常時必要である。
ただしその際には、一般的方法も普遍的原則もないし、あってはならない。
ケース・バイ・ケースの「場当たり的手続き」でやっていくしかない。(p.184)
ようは、
●もう『決められる事』(法律/国という枠組み、とか)は、ほぼほぼ理想状態にあるのだよと。
ただ、必ずしも「理想である」「正しい」「確かである」とかいう保証はないですよと。
●「確かだ」「不確かだ」とか、時間の「短い」とか「長い」とかの感覚とかって、
見方/捉らえ方によって、全然「世界感」は変わってしまうでしょ。
◎だから現代人よ、それぞれが好き勝手に「自論という名の自己中理論」を掲げずに、
考えながら歩んで行け。
まあようは、【前向いてコツコツゆけ】【みんな甘えんなよ】【頑張れば道は拓けるんだよ】みたいなことですわ。
たぶん。
これまでの人間(というか今も)って、
そもそも人間が理論(哲学)を好むのは、
世界の現象を?言語化し、?概念化し、?理論・法則化することによって、
その現象の唯一性(uniqueness)が失われ、他者性が消失し、
<私>の支配下に置かれることになるからだ。
なわけです。
コレ。世のニュースとか、政治とか、社会での人間関係とか見ると、確かに。。とか思うのであります。
そして、いわゆるプランナーと呼ばれる人たちって、これに陥ると終わるなと。思った次第であります。
結局、仕事に結びついちゃったのが最高にツマラナイ。。
まあ、芝居は面白かったです。
前から3列目だったので、奥菜恵が、もう目の前で、あまりの小顔っぷりに、
「はー世の中には、こないぺっぴんさんがおるんねー」とびっくら。
でも、役者としての彼女は、やっぱり「奥菜恵」を出れないのですね。
と思いました。
----興味持たれた方は、以下ストーリー概略。のつもり。----------------------------------
舞台の中央にベンチ。
その左側に灯りの点った洒落た街灯。
そして、右奥に金網のゴミ箱。
その周囲を囲んで三方に白壁が立っており、それぞれには扉。
壁とベンチのある空間の間には、ひと1人が通れるぐらいの幅の側溝があり、枯葉が堆積している。
それぞれの扉とベンチのある空間を短い“橋”が繋いでいます。
ちょっと見は、西洋のアパルトマンの中庭のように見えますが、
そんなところに街灯や金網式のゴミ箱はないだろうし。。
つまり、どことも知れない/何時かもわからない(ただ夜)/誰かもわからない
/この扉はどこと繋がっているという設定もない、
そんな場所がこの芝居の舞台。
そこで展開されるたった一晩(晩というきめつけ自体が意味をなさない?)の出来事です。
登場人物はさっきの4人。
意味不分明なおしゃべりを続け、ゴミ箱に枯葉の出し入れを繰り返し続ける一見ホームレス風の男。中山祐一朗。
いなくなった飼い猫を必死に探し回る男。長塚圭史。
その男に付き纏う好奇心旺盛な女。奥菜恵。
1人悟ったようにベンチで読書する男。伊達暁。
それぞれの人物は、或は扉の開閉によって、或は暗転によって舞台に登場し、または去ります。
そして時には側溝に下りて、枯葉の堆積の中を探ったりします。
そんなことが繰り返されていく中、男たちは、多くの場合、
奥菜恵と2人きりのやりとりにおいて、その素性を明らかにしてゆきます。
中山演じる男は、凶悪な妄想を抱き続けいよいよ凶行に及ぼうかとした当日、
運命に嘲弄されるような出来事に出会って苛立っているようです。
彼はまるでその辺の経緯を枯葉で表現するかのように、枯葉をゴミ箱に入れては「これまではこう」、
舞台に散乱させては「それが今はこう」と繰り返します。
“整理された過去”と“とっちらかった今”とでも言うかのように。
また、長塚演じる男の愛猫が失踪したのは、もうずっと遠い以前のことなのかも知れません。
本人は「猫がいなくなったのは昨日」と主張しているのですが。
奥菜演じる女は、変化のない日常に退屈しきっていて、自分自身を“つまらない女”と呼びます。
長塚を追いかけ始めたのも、この人についていけばこの状態から脱け出せると思ったからだとか。
つまり登場人物たちは、皆、整理された(自分なりに解釈・整理をつけた?)過去と混乱した現在と、
双方に翻弄されているようにみえます。
伊達の演じる男だけは、一見、彼らとは無関係な第三者のように登場します。
彼の登場場面のみ、舞台のレイアウトが違っており(ベンチが斜めに置かれ、ゴミ箱もありません)、
違う場所(もしくは違う時)を暗示しているかのようです。
実は、奥菜との会話の中で、彼が長塚の兄弟であることが明かさるのですが。
最後に、奥菜演じる女は、舞台に散乱した枯葉をより分け、あるものを舞台上に並べては、別のものをゴミ箱に入れて、
というしぐさをくり返し始めます。今すぐ使うもの(記憶?、物、場所、事?)と、そうじゃないものを整理していきましょうと。
やがて長塚が、ついには中山まで彼女に同調して同じ行動をとります。
「今すぐじゃないけど、わりと早くに使いそうなものは、なるべくゴミ箱の上の方に置いて」なんていって・・・。
ラストは、3人のもとにやってきた伊達が奥菜に「ありがとう」といって暗転。