広告代理店から愛を込めて

心筋梗塞になった40歳広告代理店の人のブログ

stimulating 2 days.


迷っている。
悩んでいる。と書こうかと思っていたけれど、やめた。


高校に行った。
それも、自分の経歴とは全く関係のない高校である。
足立区にある都立高。
「偏差値」という、外形的な指標でいけば、
偏差値40以下にあたる高校。

http://school.quu.cc/rank/toritsu.html


そこで、高校の同期が体育教師をしている。
中高の時、自分を救ってくれた人だ。
「誰かに、自分に気づいて欲しい。」
そんな気持ちは、どんな中高生にだってある。
今もきっとそうなんだろうと思う。


でも、当時の自分は、それを表にも面にも出すことできず、
手を差し伸べてくれる人がいても、強がって暗に拒否していた。
要は、寂しがり屋の一人好き。
それもタチの悪い。笑


それは基本的には、今も変わってないのだけれど、
その人は、いち早く気付いてくれた。(と思っている。)
そのダメな部分を受け止めてくれた。
理解しようとしてくれた。


話をもどそう。
その同期は、女子バスケ部の監督をしている。
でも部員は5人。
それも引退済みの3年生が1人。あとは、1年生が4人。


バスケという種目において、部員は少なくとも10人。
15人くらいが望ましい。
それは、試合を闘う上でもそうなのだが、
練習で特にものをいう。


バスケットボールの基本になる、「3角形」。
つまり、3対3ができない。
ましてや、5対5の練習もできない。
そこで、対戦相手として参加したわけである。


目的は、もう2つあった。
●いまの高校生と触れてみたかった。
(結果的には、あまりコミュニケーションをとることができなかったのだが)
●同期の教師に、教育/教育現場/生徒のホント、を聞きたかった。


それは、仕事、といえばそれまでなんだけれど、
中高の時に、おそらく“死んだ”目をしていただろう自分がいたこともあり、
根っこのところで、興味があった。野次馬的興味ではなく。本当に interested in。


自分のことで恐縮であるが、
本当に人/環境にめぐまれた学生生活だった。(大学は別として。笑)
今の自分があるのは、高校の部活。その先輩。同期。
10分の3の確率(経験則)で自分のことを気に入ってくれるクラスの友人。
それは、やはり世間的にはエリート校(偏差値65−70近いのかな??)である国立高だったからかもしれない。


そのことに関しては、本当に自慢げにいうつもりもサラサラない。
なにせ、父親はフツーのサラリーマン。その上離婚してトンズラ。今もなにをしてるんだかさっぱり。
あの学校に入れたのは、
幼稚園時代に、髪の毛をひっぱられながらも算数の勉強をした、母親の強烈な教育熱。
そして、なぜか引き当てた2回のクジ。
あとは、箸の使い方上手。くらい。
自分が、あの学校に入れた理由は、そんなもんである。
ほぼ、偶然、と言っていい。


一方で、今回いった高校は自分の境遇とは、まったく違う。
偏差値40以下。
当然ではるが、両親の年収は低い。
いわゆる、数字で計る、「学力」も低い。
進学先は、ほとんどが専門学校。
もしくは、公務員/一般就職。
少数の大学進学。
といっても、最高で日東駒専レベル。


そんな生徒たちとバスケをした。
始めに言っておく。バスケと「学力」は比例しない。
上の図である偏差値が低いと言われる高校に、
自分が現役のときは、コテンパンに負けている。


ただ、彼女たちとバスケを通じて“疑似コミュニケーション”をした率直な感想がある。


投げかけても響いている/届いている感触がない。


確かに、理解力、という面では多少課題があるようには見受けられる。
アドバイスをしても、腑に落ちている感じがしない。


ただそれ以前に、彼女たちの世界(視線ではなく、精神世界とでもいうべきか・・・)
に、僕らが入っている感じがしないのだ。


5対5のゲームのハーフタイム。
監督がゲキを飛ばす。アドバイスを出す。励ます。
彼女の言うことは、聞く。
さすがだな、と思った。彼女は、キチンと生徒に受け入れられている。
スゴイことだと思う。


ところが、監督の話が終わると、彼女らは、“じゃれ合い”だすのだ。
そう。それは、本当に幼稚園児とか、小学低学年のじゃれあいに近い。
体で触れ合う。それが非常に楽しそう。というより、心地いい。
いや、安心、なのかもしれない。


その高校に行く以前まで、
自分なりに、高校生に対する仮説があった。
●高校生(それ以下も含めて)は、社会的マイノリティである。

昔↑こんな広告があった。
これは、中高年に対してツーカーはあなた達のことを考えてますヨ。という広告なのだと思う。
翻れば、それだけ若者は少ない。社会的マイノリティであり、社会的弱者である。
●だから、横のつながりが強い。そして、そこが「世界の中心」である。
●失敗が怖い。
失敗をした際に、“フツー”から転げ落ちるのではないのか、という恐怖感。
●目標が見いだせない。
「とりあえず、大学は行く。」「とりあえず、専門くらいは行く。」
それが、仮想目標になる。(これは自身の実体験に近い。)
本来なら、自分の一生の目標/Happyについて悩みまくるべきである、と個人的には後悔している。
●“ロールモデル”がいない。
たとえば、憧れる先輩/教師。
スポーツ選手/芸能人。親。なんでもいい。
自分のふるまいの指標になる人。

私は、これをその同期の体育教師に投げかけてみた。
彼女の答えは、「ちょっと違うと思うよ。」だった。
1つ目に関しては、依存はないと。
2つめも、正しい。マスコミが報道しているように、クラスでケータイ着メロがなるようなことはないが、
でもケータイは、高校生にとって、命の次に大事なくらいな印象を受けている。


異論は、最後の3つだった。
●失敗が怖い→「というより、失敗に気づかないんだよね。」
つまり、自分が犯したことが失敗だと認識できない。だから、そこから学ぶことも、ヘコむこともない。
だから、教師が指摘してあげないといけない。「それはミスだよ。」と。
●目標が見いだせない。→「というより、何をしていいのかわからないんだよねたぶん。」
つまり、インプットがうまくできない。それを上手に整理もできない。だから、適切な状況判断もできない。
そうなると、身近なところにおさまる。
それは、友人とのコミュニケーションだったら、相互承認だったり、依存だったり。
先を見越す、という感覚がまずないそうだ。
●強い“ロールモデル”がいない。→「そんなことはないと思う。けど、ロールモデルを強く欲しているという感じはしない。」
彼女の学校は、教師のフォロー体制が非常に幅広い。丁寧である。
おそらく、有名私立高などに努めている教師からしたら、
「え!?そんなことまで!?」という事までしている。
実際に、3か月前に、有名都立高から転任してきた教員の1人は、とても困惑しているそうだ。


彼女の発言には、理由があった。
その高校には、「カタリバ」というNPO団体に、セミナーをしたもらった経験があったという。
それもつい去年くらいの話。
http://www.katariba.net/
この団体は、高校を訪れて、大学生/若めの社会人と、4(カタリバ)対2(生徒)で、
将来とか、悩みとか、人生とか、なんでもいいから腹わって話す場を作る団体だったらしい。

カタリバ設立趣意書

2001年夏、まだ学生だった私たちは、
「無気力・無感動・無関心な若者たち」などと表される世代の内側、
つまり、教育を受ける側にいました。

本当にそうなのか?本当はみんな思っていることがあるんじゃないの?

まだ眠っているかもしれないけど、誰でも心の奥にはスイッチが入りさえすれば点火する
「ホンキ」が眠っているんじゃないか・・?
そして何かひとつやってみたら、誰かが自分を変えてくれるんじゃなくて、
自分で自分を楽しくするってこと、きっとわかってくるはず。


私たちは、自分たちの世代を表象的に表される
様々な大人言葉に違和感と抵抗感を感じつつも、
確かにどこか言い当てているこの現状をなんとかしたいと思いました。
状況は、社会が悲観視されているほど悲観的でもなく、
本当に可能性も希望も本気もやる気もまったくない人は一人もいないということを、
私たちは確信していました。

なぜなら、私も、「きっかけ」以前はあっち側にいたからです。


感動のあまり心を揺さぶられるような経験
本気でやったのに叶わなかった目標に悔しくて涙する経験
みんなと一緒に心のそこから大笑いするような経験
胸がいっぱいになるくらい憧れる人との出会いの経験

コミュニケーションのメディアが便利になってきた今、
つながりたい人とだけつながりあえる時代になってきたからこそ、
こういう経験は足りなくなってきているのかもしれない。
しかし心がずしんと動くようなこういう経験は、考え方や行動にとって、
確実な「きっかけ」になります。


今日の時点で自分や周りにドライなあの子も、きっと何か「きっかけ」で変わる。

ダルイとかウザイとか、そういう表現で自己表現しているあの子も
それ以外の表現で複雑で繊細な自分の感情を表現できていないだけ。


「きっかけ」不足な社会に生きる10代のために、
「私、がんばってみようかな!」と思えるような「きっかけ」をつくりたい。
それも、できるだけ、みんなに行き渡るような方法で。


そう思い立って2人で活動をはじめてから6年がたちました。

現在NPOカタリバには、年間3800名もの若者が、
「昔の俺に会ったら言ってやりたい事が山ほどあるんだ」なんて言いながら
真剣に「自分が受けたかった授業」をつくり、高校に訪問し、
高校生に「きっかけ」を運ぶ活動をしています。


NPOカタリバが特定非営利活動法人NPOカタリバになった今日、
ここであらためて宣言します。


特定非営利活動法人NPOカタリバは、社会を構成する人々のつづく日常の中に、
たくさんの優しいナナメの関係が生まれ、個々が少しづつみんなのために優しくなる、
そして、未来の社会づくりに自分らしい形で少しづつ参加する人が増えた時に、
確実に社会は変わるのではないか。

NPOカタリバなんていう仕掛け屋が
いなくてもそんなことが成り立っている日を目指して、
今日もカタリバは多くの高校で生活する高校生にたくさんの「きっかけ」を運び続けます。

2006年9月吉日
特定非営利活動法人 NPOカタリバ 代表 今村久美 (旧性 中澤)

その時の、生徒の反応は上々だった。
「年が近いせいもあるかもしれないけどね。」と彼女は話す。
「目が違った。明らかに。」
進路希望書を出すタイミングまで、なにも考えてないような生徒がほとんどだった(らしい)のだが、
少なからず手ごたえがあったという。


あと数点。
●「無気力なんだよね。なんか。」
授業の時も、極端な生徒なんかだと、まつげをいじってたりする。
そこを、「ハイこれしまってっ。よいしょー。カバンにいれてっ。ハイノート出してっ。」
と、それでも「ペタン。」と机に倒れこむ。
●「叱られる/怒られることが本当に嫌/怖いんだよ。簡単に泣くからね。」
●「両親自体が、教育に関心が高くないのは確実にある。
   世帯年収が低いのも1つの要因だとは思うけど、両親の学歴も関係してるのかなあ…。」
●「プライド/自尊心が高すぎる。か、ひどく自信がないか。どっちか。」


長々と書いた。
というか、書かずにはいられなかった。
疑問がわいてくる。
●これは、この高校特有の現象か。そうでないか。
●自分が高校の時は、どうだったか。いわゆる、“低い”といわれる高校は、この高校と同じなのか。
●日本は大丈夫か。

そして、色んな考えが浮かぶ。
国会で、居眠りをしている議員に対して、解雇する権利は国民にないのか!?
てゆうか、年寄りは、隠居なんてさしてる場合なのかこの国は!?
間接民主主義って、機能するのか!?


そして、自分自身にも、
今のギョーカイは、これ以上自分が手出し可能な世界なのだろうか。とか。
会社員ってどうなるんだろう、とか。
てゆうか、3年間で自分が出来るようになったことって、小手先のスキル以外にあるのだろうか、とか。
オトナは、なんでこうも大人じゃないんだろう。とか。
なんで、おれはこんなに心が熱くならないんだろう、とか。
あの半年間の密度と、この1年間の薄っぺらさの差はなんなんだろう、とか。


答えは、見えない。
でも進むしかない。


実は、これが、現状の日本のすべてなのかもしれなかったり。


間違いないのは、またもやヤツに救われたことだ。感謝。


Just walikin' the park !


実践できたらいいのにね。