広告代理店から愛を込めて

心筋梗塞になった40歳広告代理店の人のブログ

佐々木俊尚

■佐々木さんの論説

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「広告はラブレター」論はネット時代にも成り立つのか?
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【これからどうなるのか】

 昨年、「広告はラブレター」論が広告業界で盛り上がった。
 広告ラブレター論というのは、もともとは1980年代から90年代初めのバブル期にさかんに言われた言葉で、
素晴らしいラブレターを相手(消費者)に届けることができれば、
いままで自分に対して見向きもしてくれなかった相手(消費者)をこちらに振り向かせることができるというものだ。
つまり素晴らしいクリエイティブこそが広告の最大の武器であるという考え方である。
そうした世界観のもとに、1980年代には仲畑貴志氏や糸井重
里氏といったコピーライターや、細谷巌氏や葛西薫氏などのアートディレクターが広告文化の担い手として活躍した。

 この広告ラブレター論が昨年ふたたび盛り上がったのは、
サトナオこと電通佐藤尚之氏がベストセラーとなった『明日の広告』(アスキー新書)の中で取り上げたからだ。
佐藤氏は「いまや消費者はラブレターを受け取ってくれなくなった」と書き、こう説明した。

・ラブレターが相手の手に届きにくくなった。
・他に楽しいことが山とあり、相手はラブレター自体に興味をなくしている。
・ラブレターを読んでくれたとしても、口説き文句を信じてくれなくなった。
・しかもラブレターを友達と子細に検討し、友達に判断を任せたりする。

 つまりはインターネットの出現によって、商品情報とのコンタクトポイント(接触点)が昔とは比べものにならないほどに増え、
この結果、マスメディアを通じて届けられる広告の効果が薄まってしまったということである。
これをどうやって乗り越え、ラブレターを再び消費者のもとに届け、心に突き刺すことができるのか――
という問題意識が、『明日の広告』のテーマとなっている。

 歴史をひもといてみよう。広告ラブレター論が1980年代に盛り上がったのは、消費文化の進化の必然だったと私は考えている。
日本のものづくりは1950年代から70年代にかけて著しく進化し、
「安かろう悪かろう」というような製品は国内からはほとんど姿を消した。
それにあわせて消費者の側の意識もすすみ、この進んだ意識似合わせて製品はさらに高度化するというスパイラルが生まれ、
そうなってくると、徐々に製品と製品の機能の差が小さくなってくる。製品が差別化されなくなってしまったのだ。

 こうした「ものづくりの成熟」が完成したのが、1980年代である。
そうなると、「どの製品を選ぶのか」という選択肢はきわめて曖昧なものとなってくる。
そこで製品のまわりを取り囲んでいるある種の「膜」のようなものが重視されるようになっていった。
この「膜」とはブランドであり、あるいは流行といった記号である。
要するに製品そのものではなく、記号が消費される時代がやってきたのだ。

 1980年代当時の消費者にとっては、ブランドや流行と自分のキャラクターが合致しているかどうかが、非常に重要だった。
「私にはこのブランドが合っている」「あの人は自分とは合わないブランドを使っていて変だ」
といったことがさかんに日常会話で使われた。

 バブルの景気が最高潮に達した1990年、精神科医の大平健は『豊かさの精神病理』(岩波新書)という本を刊行した。
この中で大平は、「モノ語り」と彼が読んでいる傾向の人たちについて書いている。

 モノ語りとは何かと言えば、人間関係や自分のイメージ、他者のイメージ、あるいは自分の将来像など、
ありとあらゆることをモノ(商品)に仮託して語ってしまうような人のことだ。
たとえばこんな例が挙げられている。

 「そのオバサン、若ぶっちゃって、LLビーンのトートバッグか何かで会社に来るんですよ。
靴もオイルド・モカシンで会社でパンプスに履きかえるの。なに気どってんのって皆で笑ってますよ。
若い娘のまねしてリーボックならまだ可愛いいですけどね。
私はあんたたちより格が上だって態度がイヤ。単なるオバサンなのにね」

 同じ職場の年上の女性とうまく行かない、と訴える不眠症の女性患者は、
その年上女性を「若者ぶっている」と非難するのだが、その「若者ぶっている」ということを表現するのに
「LLビーンのトートバッグ」や「オイルド・モカシン」のイメージを流用したわけだ。
モノ語りたちは、自分自身のステータスや経済的豊かさも、商品のイメージに仮託していた。
BMWに乗っているリッチなオレ」「シャネルのバッグを持っている素敵な私」

 このような記号消費の時代だったことに加え、当時はまだインターネットなど存在せず、
情報の流路はマスメディアに限られていた。
「マスに向かって、なおかつ記号消費を行う」というような枠組みだったのだ。
そのような状況の中では、マスメディアを経由して記号についての情報を流すことこそが、広告の王道となる。
ゆえに製品そのものに内在する魅力よりも、その記号の魅力を語るクリエイティブが重視されるようになり、
広告ラブレター論が花開いたのだった。

 ところがうした広告ラブレター論は、2000年以降は完全に失速する。理由は2つある。

(1)消費文化の変質により、記号消費が行われなくなった。
(2)製品の進化が目に見えなくなり、製品がコモディティ(日用品)化してしまった。

 (1)は、1990年代なかば以降に長く続いた不況と、
その時期に青春時代を送って大人になったロストジェネレーション層の影響が大きいかもしれない。
きわめて地道な生活を好む彼らは、背伸び消費をしなくなってしまったからだ。
昨年6月2日に、日経MJ(流通新聞)が「高額品市場に冷風 “背伸び消費”縮む ヴィトン・ティファニー苦戦」
という記事を掲載している。

<高級ブランドや宝飾・時計、輸入車など高額消費の冷え込みが目立ってきた。
原材料高騰による価格上昇や株安を受け、ブランド消費の担い手だった働く女性による“背伸び消費”が縮小しているためだ。
株式などで最近資産を増やした「にわか富裕層」の買いも一気に渋くなった。
二つの大きなかたまりが支えた高額品市場は冷夏を迎えようとしている>

 日経はこの減少を、不景気でニューリッチが高級消費を抑えているためだと分析しているが、
私はこれは時代的な消費傾向の変化であり、高級品を背伸び消費するような文化はもうやってこないと考えている。
そもそも年収200〜 300万円の層がルイ・ヴィトンやシャネルの高級バッグを購入していたこと自体が異常だったわけで、
記号消費時代の終わりとともに、そうした異常な背伸び購買行動は終焉を迎えつつあると考えるべきだ。

 さらに(2)のコモディティ化が進むと、消費者が商品を選ぶ軸は、「値段が安い」という一点に絞られてしまう。
もし消費の基準がそこに絞られてしまうと、ラブレターとしての広告はいっさい不要になり、
クリエイティブの入りこむ余地などまったくない。

 実際、これまでのインターネット広告は記号消費やクリエイティブなどをほとんど無視し、
いかに的確に消費者と、その消費者が必要としている商品をマッチングさせるかという一点に絞られてきた。

 その枠組みにおいては、「広告はもう不要ではないか」という議論も生まれてきている。
次のような論理だ――
かつてはマスメディアの広告を経由して商品情報が消費者に渡されていたけれども、
インターネットは『中抜き』して中間を排除するという特性があり、
企業は商品情報をダイレクトに消費者に送り届けることができるようになってきている。
情報を送り届けるプラットフォームは、マス広告ではなく、
インターネットの検索エンジンソーシャルメディアといったアーキテクチャーになってきているのだ――。

 つまり商品は、いまや広告コミュニケーションそのものを必要としなくなってしまっているのではないかということだ。
実際、ネット広告の分野では、広告と販売促進の違いは消滅しつつあって、企業の側も広告宣伝部と販促部を統合したり、
あるいは予算を一本化するような方向へと進み始めている。

 とはいえ、こうしたネット側の考え方には、重大な欠陥がある。
このような消費者と商品のマッチングモデルは、「消費者が自分の求めているものを最初から理解している」
「自分がすでに選んだ商品をどこで買うかを考えている」という前提のもとに成り立っているからだ。
つまりそこにはセレンディピティの考え方が欠落している。
セレンディピティというのは「偶然幸運とつながる力」と訳されるが、
つまりはマッチングするはずのない消費者と商品情報が、突然変異的に結びつくことだ。

 ネットでこうした考え方が蔓延してしまったのは、
おそらくは検索エンジンというインターネットのおける情報アクセスの中心的アーキテクチャーが、
「プル」の構造になっているからだと思われる。
座っているだけで情報が流れ込んでくる受動的なメディアであるテレビや新聞と異なり、
検索エンジンは能動的なメディアで、消費者側が主体的にキーワードを入力しないと、情報は得られない。
これはすなわち、消費者が「最初から自分が何を求めているのかは、明確にわかっている」
ということを前提にしたアーキテクチャーであるということだ。

 しかしそんなことはもちろん、実際にはありえない。
自分が何を求めているのかははっきりしないケースは多いし、
インターネットで偶然見つけた面白そうな商品を購入するというケースは誰にでもあるだろう。
そうなると、その偶然(セレンディピティ)を積極的に演出する方法はないのだろうか? 
そしてその演出こそが、実はネット時代のクリエイティブになるのではないだろうか?

 実際、そのようなセレンディピティを演出しているサイトはいくらでもある。
たとえば、アイランド株式会社が運営するおとりよせネット。

おとりよせネット
http://www.otoriyose.net/

 通販でのお取り寄せのポータルサイトだが、アイランド社長の粟飯原理咲さんは以前、
私の取材に答えて次のように話している。

 <たとえば美味しいもののお取り寄せをしようと楽天などのショッピングモールを訪れても、
店が多すぎてどこに美味しいものがあるのか分からないですよね。
それで購入した経験のある人たちが、口コミで情報を交換するサイトにしようと思いました。
しかも玉石混淆じゃなくて、お取り寄せの美味しい店だけが掲載されていて、
そうした店へのクチコミ評価が載っているようにしたいと考え、
それで食に対する感度の高い「お取り寄せモニター」五人が試食して商品を評価し、
過半数の賛同が得られなければ紹介しないというモデルにしたんです>

 <商品にも物語が求められていると思うんです。
どのように作られた商品なのか、そのアイデアはどこから生まれ、商品化するに当たってどのような苦労があったのか。
あるいは有名人などが好んでいるとか、そういう物語があれば、
お取り寄せして食卓に載せた時に家族で話題が弾むじゃないですか。うんちくを披露したりとか。
そういう物語があるとないとでは、やはり売り上げは大きく変わってくると思います>

 つまりは商品の背後にある物語性(コンテキスト)こそが、おとりよせの魅力につながっているという説明だ。
この物語があると、たとえば購入した女性が夫に「この商品はこんなタレントが使ってるの」
「この商品はこうやって作られたんだよ」と説明し、盛り上がることができる。つまりは物語消費である。

 1980年代の記号消費は消失し、現在の消費動向は以下の2方向へと分化していると私は考えている。

(1)コモディティをいかに安く入手するかという「マッチング消費」
(2)その商品や企業が持っている物語を感じながら購入する「物語消費」

 前者のマッチング消費においては、クリエイティブの入る余地はなく、
検索エンジンやマッチング広告のようなネットのテクノロジー広告が最適である。
しかしながら(2)の物語消費では、テクノロジー広告では不十分で、必ずセレンディピティが必要となってくる。
物語消費をする人々は、必ずしも自分にマッチする商品だけを求めているのではなく、
そこに新しい世界や物語に対する新鮮な驚きを期待しているからだ。

 なぜ物語消費が求められるのか。この背景には、承認への欲求があるのではないかと私は分析している。

 戦後社会が終焉を迎えたことによって、多くの場所で人々は承認されなくなっている。
かつて日本人は、農村の中でムラビトとして生きることで他のムラビトたちから承認してもらい、
心安らかに生きていくことができた。農村が無くなってからはそれは終身雇用された企業になり、
会社員として同僚たちと赤提灯で一杯飲んで、安楽に過ごすことで承認してもらっている安心感を感じることができた。

 だがいまは農村も終身雇用制もなくなってしまって、人々は風通しはよいけれども、
しかし孤独な平原の真ん中にそれぞれが立たされている。
そのような時代状況の中では、人は自分が他人となんらかの形で承認し、承認される関係を強く求めるようになる。
物語消費は、物語によってその関係性を構築しようという期待の一端である。

【これからどうなるのか】

 そしてこの物語消費にこそ、次世代のクリエイティブの可能性が秘められているのだ。

 記号消費は、商品を薄く包む「膜」のようなものでしかなかった。
膜でしかなかったからこそ、ラブレターのような「広告企業のクリエイティブによる代筆」でも効果はあったのだ。
仮にその代筆が、ラブレターの送信者(企業、商品)を過剰に飾り立て、若干の誇張を含んでいたとしても、
それはしょせんは膜でしかないという一点において許されていた。

 しかし現在の物語消費においては、物語は商品の持つ文脈(コンテキスト)である。
それは商品そのものに内在する物語であって、決して広告企業のクリエイティブによる代筆ではない。
「もてたい」と思って自分を誇張しても、内面から光り輝いていない人はすぐに化けの皮がはがれてしまうのだ。

 ある広告系ブロガーは、ラブレター広告論を批判してこう書いている。
<この辺の話は「ラブレターを渡せば何とかなる」とか、
そもそも「ラブレターをもらったらみんなうれしいはず」という勝手な幻想に基づいている。
そんなのリアルな世界にいたら、超KYじゃねーかと。相手の気持ちは無視かよ。
ちゃんと「ただしイケメンに限る」って書いてあるでしょう>

 イケメンでもないのにラブレターを書いたって、どうせすぐばれちゃうよ、ということだ。
そのような中では、新世代のクリエイティブに必要な要素は次の2点となる。

(1)信用できること
(2)コネクティビティ(接続性)が持続すること

 つまりはマス広告のように集中豪雨的に上流から下流へ広告を流し込むのではなく、
クライアントと消費者がおたがいの信頼関係を保ち、さらにその関係性を維持できるような仕組みを構築しなければならない。
博報堂からサイバーエージェントに転じた須田伸さんは、日経ビジネスオンラインの連載コラム『Web2.0(笑)の広告学』で2007年9月、
次のように書いている。

 <でも、広告がワンウェイの「ラブレター」だけでは、もはやなくなってきているのもまた事実。
インターネットの出現によって、ラブレターの受け手であるユーザーが反応を企業に直接、返してくる。
しかも、ブログなどでの反響が、次々とつながっていく中で、時としてマスメディアを超える大きな声になることもある。
そうすると、一方通行のラブレターは、なくならないにしても、今後は主役の座から降りていくのではないか、そんな気がしています。
むしろ、企業と消費者は、いっしょに街へ出かけてコミュニケーションをする。それが広告の根幹になっていく。
例えて言うなら、これからの広告は、かつてのラブレターから、デートに進化する>

Web2.0(笑)の広告学
広告は、ラブレターからデートへ進化する
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20070921/135664/

【どう行動すべきか】
 広告とのコンタクトポイントを増やせば、ラブレターが届くようになるわけではない。
先にも書いたように、そこで信頼のあるコネクティビティをどう持続させるかということだ。
ではここで必要とされるクリエイティブは、どのようなものになるのだろうか?

 コネクティビティはマスメディアが最も苦手とする領域であり、
逆に言えばインターネットのソーシャルメディアが最も得意とする領域である。
マスメディアが流れてきた情報を信じない人たちが増えている一方で、
身近な友人や自分の信頼できる特定のインフルエンサーからの情報の信用度は、以前よりも高まっている。
つまり商品とのコネクティビティは、
ソーシャルネットワークが生み出すインフォコモンズ(情報共有圏)によって支えられるのだ。

 要するに、ソーシャルネットワーク広告の可能性を考えていかなければならないということである。
ではソーシャルネットワークが成立する用件とは、どのようなものだろうか?

(1)たとえば音楽の好みが一致している人同士がつながっているSNSマイスペースのように、
そのソーシャルネットワークの領域(インフォコモンズ)が、自分の趣味思考や仕事の分野などに的確にマッチしていること。
(2)信頼する友人から流れてくる情報にクリエイティビティがあり、そこにセレンディピティを感じさせること。

 このあたりは抽象的な議論で申し訳ないが、ソーシャル圏域でのクリエイティブを実現しようとすれば、
マスメディアのような上流から下流に流し込まれるモデルではなく、
消費者の目線に下りた「同じ趣味の仲間から面白い情報を得られた」というようなモデルが必要になってくる。
つまりはCGM(消費者の生み出すコンテンツ)とクリエイティブを結びつけるような
集合知的なクリエイティブが成り立ちうるということだ。

 これは広告市場からの需要にも合致する。
今後、インターネットにおける広告配信が中心になってくると、
メディアの数は増す時代とは比較にならないほどに増えていく。
そのような状況の中では、広告企業のクリエイティブ局が生み出すプロの広告コンテンツだけではなく、
CGMによる広告コンテンツの役割が相対的に高まっていくだろう。

 これは必ずしも、素人の作るクリエイティブが主導的になるということではない。
たとえばポップテント(Poptent)というアメリカ企業は、
クライアントからリクエストがあると、サイトに登録している小規模な広告スタジオやフリーランスのディレクター、
カメラマンが広告政策を行うという「クリエイティブ・マーケットプレイス」のビジネスをスタートさせている。
以下のサイトに、参加しているカメラマンのデモ動画が掲載されている。

ポップテント
http://www.poptent.net/user/daneboe

 ポップテントに仕事を依頼したいクライアントは、まず2万5000ドルを支払って登録する。
参加しているクリエイティブの側は動画を作成し、サイトに投稿し、この中からクライアントの気に入るものがあれば、
5000〜7500ドルを支払うという仕組みだ。
トータルコストは3万ドル前後になるが、しかし従来のテレビCM制作費に比べればかなり安価に作ることができる。

 集合知というと「素人の発想の寄せ集め」という印象を持っている人もいるかもしれないが、それだけではない。
ネット上にはさまざまな分野のさまざまな専門家が存在しており、そうした専門家のインフォコモンズに対して何らかの働きかけを行い、
その特定分野からの専門知識をすくい上げることもできる。
このあたりは一昨年、日本語訳が刊行された書籍『ウィキノミクス』(日経BP社)で詳しく分析されている。

>>>>>> ここからが、全文配信でお読み頂きたかったところです。

 インターネット時代における広告業界は、構造変化の時を迎えている。従来の広告のレ
イヤーモデルは、次のようなものだった。

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ナショナルクライアント
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広告代理店
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マスメディア
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 広告代理店は手作業でナショナルクライアントとマスメディアを結びつけ、
この「手作業」の部分を担っている営業マンが最大のアセットだったわけだ。
これがネットではこう変わる。

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無数のクライアント
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広告プラットフォーム
――――――――――――
無数のネットメディア
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 クライアントとメディアが複雑化することで、手作業によるマッチングは不可能になり、
ここがITのシステムへと変わっていく。
このレイヤーモデルは、クリエイティブについても同様に変化する。
現状はこうなっている。

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社内のクリエイティブ

広告代理店
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マスメディア
――――――――――――

 これがネット時代には、クリエイティブも外部化され、
ソーシャルメディアを経由して広告プラットフォームと連動していく。
おそらく次のようなレイヤーモデルだ。

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CGMとしてのクリエイティブ
――――――――――――
ソーシャルメディア
――――――――――――
広告プラットフォーム
――――――――――――
無数のネットメディア
――――――――――――

 このような構造になったとき、クリエイティブはどのような意味を持っていくのだろうか。
最大の意味は、先ほども書いたように、

「マッチングだけではないセレンディピティを生み出すこと」

 である。つまりマッチング消費ではない、
物語消費の分野も包含していけるような新たなネット広告モデルの構築へとつながっていくのだ。
それに加えて、広告市場の維持拡大にも貢献するだろう。

 どのような意味か。コンテンツマッチ行動ターゲティングのようなターゲティング広告が増加していくと、
マスメディア広告やバナー広告に比べてマッチング効果が高くなるため、
全体の広告投下量が減少するということが起きてくるはずだ。
マッチング消費だけを対象にしてしまうと、物語消費の部分が看過されるから、これは当然の流れである。
そこでクリエイティブ広告を投下していくことで物語消費の部分にまで広告分野をカバーしていくことによって、
広告投下量は維持拡大される可能性があるということだ。

 現在の広告業界は、マスメディアとナショナルクライアントを結び、
クリエイティブを内製する代理店モデルをベースに構築されている。
今後このような構造は崩壊し、無数のメディアと無数のクライアントを結び、
そこにCGMクリエイティブを巻き込んでいくようなモデルへと変化して行かざるを得ないだろう。
このような業界構造の中では、広告企業は次の二つの性質を帯びてくることになる。

(1)代理店ではなく、プラットフォーマーであること。
(2)クリエイティブと消費者を結びつけるコンサルタントであること。

 もしこのような構造転換を実現できる広告企業があれば、
その企業はネット時代において大きな支配力を発揮することになっていくはずだ。