広告代理店から愛を込めて

心筋梗塞になった40歳広告代理店の人のブログ

どちらかといえば、草食だから。

きのう、ある仲間たちと飲みに行って、
たぶん、このぼくという生き物の、あっさーい底をとうの昔に見ぬいているであろう人に、


「大丈夫。どちらかといえば、草食だから。」


と、人畜無害な人間よー的な指摘をされた。





この時の文脈は、明らかに“オス的肉食”との対比での“草食”であって、
恋愛とか男女とかの文脈の中での話だった。


まあ確かにどちらかといえばそうなのだろう。たぶん会社の人間もそう言う気がする。
と思いながらも、
「どちらかといえば雑食です。」
の方が近い気がしていた。


というどうでもいい自分のハナシは置いておいて。


内田樹なにがしの、こんな記事があって、
http://blog.tatsuru.com/2009/04/29_1045.php

自分は相対的には豊かであると思っている人間が、
そのことについて一抹の「疚しさ」を覚えるような時代の空気になっている。


もちろんそんなことを少しも感じないで、自己利益の追求に熱中している人もまだたくさんいるだろう。
けれども、そういう生き方はもう「デフォルト」ではなくなった。
私にはそう感じられる。


地球生態系に65億の人類をこのまま養うだけの資源がない以上、
総体として私たちが「飢餓ベース」「貧困ベース」「弱者ベース」の生存戦略に切り替えることは
おそらくは人類学的必然であるように私には思えるのである。


どちらかというと、この視点におらは惹かれる。


惹かれる、というと、またそんなネガティブな・・と思われるかもしれないけれど、
オリンパスの「こころとからだ。にんげんのぜんぶ。」というコピーを書いた人が、
(これも好きだ。)


「私は、コピーを書くときに、ターゲットが不幸せな状態にあることを想定します。」
「そして、その人が言って欲しいであろうことをコピーにする。」


的なことを言っていて、ああそうだよなあと思ったことがあって、


何が言いたいかというと、
内田樹の言っているちょっと不幸せな状態を認識したうえで、
前を向けるようなそんなアプローチが今は必要なんじゃなかろーか。
とそう漠然と思ったわけであります。


またうまく言葉にできないのだけれど、スタンスとしては、こんな感じな気がする。

「自分に都合が良くなりがちなのは避けられない」、これをまず認めてしまうという手はないのだろうか。
そのうえで、「私はこういう風な立場なので、このように偏り得ます。そのうえで聞いてください」という姿勢は不可能なのだろうか。
決して悲観的になったり、諦めてしまうのではなくて、明るく認める。
そのうえで、自分の立場を明らかにする。


こうすることで、受け手の側にも心の準備ができて、吟味の際の材料が増えるということはないだろうか。
客観的というのは最善だけれど、それが混乱を生むならば、次善で勝負するというのはないだろうか。

http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51596861.html