広告代理店から愛を込めて

心筋梗塞になった40歳広告代理店の人のブログ

2ch化する社内SNS。

ネットが「ツール」に留まる人と、
ネットが「生活の1部」「コミュニケーション手段の1部」にまでなる人、
どっちが多いんだろう。


確かに後者は意外と増えてる気がするけれど、
やっぱり前者がマジョリティな気がする。


ニコ動がノッてきて、twitterがノッきて、
非同期でなく、より同期性の高いものがもてはやされてきたけど、
やっぱりマジョリティ獲得まではいっていない。


マジックミドル?じゃないけれど、
Buzzを、インディーズレベルから、マスレベルまでドライブさせる装置としては、
確かにパワーを感じる。
そういうシカケを作るために、彼らに受容される情報お作法はしらなきゃいけないと思う。
深く刺さるメッセージより、軽く手に取りやすいメッセージの方が、広がりやすい。
広瀬こーみの、「ヒウィッヒヒー」とか、「tsudaる」とか。



こうゆうサブカルチャー的な文化/情報がもっと広がるには、大きくて深い溝があるよ。やっぱり。
なんてゆーか、良い意味で「サブカルチャー的な偏見」って、取り払われてきたんだけれど、
どうしても拭いきれない「そっち系の空気感」みたいなものがやっぱりあって、
それは絶対にマスにはなりえない気がする。


彼らは圧倒的に情報処理能力が高く、ものすごく感受性が高くて、
面白い視点をたくさんもってる。
けれど、肌触れ合う距離感で会話するそれとは、やっぱり違う感覚がそこにはあって、
機械を通してしまう限界を感じずにはいられない。
なんつーか、やっぱり「内輪」になるんだよね。結局。
「内輪」で「卑屈」で、「ネガ」「自虐」。


そういう意味で、「梅田望夫」なんかすごく期待してたんだけれど、
結局「はてなの住民」から弾圧されちゃったし。


まあ、結局何が言いたいかってゆーと、
社内SNSでいい歳こいた先輩が会社グチと、毒を吐いてるさまを視ると、
なんかがっかりなわけです。


漠然と「太い言葉」みたいなのがあって、
ついていきたくなる背中をもつ人には、そういう言葉が印象として残ったりする。
翻って、上記「グチ」「毒」系に人をみてみると、
「細く黒い言葉」の集積しか印象にない。
そんなもの。


人は殴られない距離にいると強気に出る。
だからネットは荒れやすい。だから新聞の投書は高圧的。

「太い言葉」というのがあって、
何か未知の状況にあって、そんな「太い言葉」をベテランから授かると、何か安心できるというか、
なんだか自分も「太く」なれたような気分になって、
大きすぎて途方もなかった問題が、少しだけ、何とかなりそうな気がしてくる。

「太い言葉」の中には、たとえば「そもそも葬式とは」だとか、
「そもそも闘争とは」みたいな原則論は少なくて、
具体的な、理屈抜きの「こうしろ」というアドバイスが、ゴロッといくつか無造作に置かれているだけだし、
その言葉に従うと、いったいどういうメリットがあるのか、
理屈では全然見えてこないんだけれど、聞くとなんだか「太く」なれて、不思議と安心感がある。


抽象論抜きの、具体的で、なおかつ本質みたいなのをつかんだ、具体で絶対を表現するような、
こうした太い言葉をそこに置くためには、いろんな修羅場をくぐり抜けて、なおもそこから帰ってくる、
そんな通過儀礼が必要で、
リーダーをやる人は、「ここ」という状況で、そんな言葉を発する義務があるんだろうなと思う。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/394