広告代理店から愛を込めて

心筋梗塞になった40歳広告代理店の人のブログ

平山的幸福論。


社会人をやっていると、
仕事をしているだけで何かをやった気になる。


仕事をして、お金を稼いで、その一部分のお金をもらう。
お金は生活の糧だし、生活の糧を稼いでいるのだから、確かに一定以上「成し得ている」。


この「お金」ってやつは大事だ。
お金で幸福は買えないけれど、不幸は排除できる。
教育を受けられない不幸。
突然の病という不幸。
ほどよい嗜好品すら買えない不幸。
「お金で不幸を迎撃しつつ、自力で幸せを生産する」というのがきっとベストな人生戦略。


だけど、どうも自分は、この「お金」ってやつへの飢餓感がうすい。
「あれほしいなあ」とか、「ここ行ってみたいなあ」とか、お金がなければかなわない欲求みたいなのは、もちろんあるのだけれど、
じゃあいざその欲求をかなえるための「お金」をもっと得ようよ、とはならないのである。
(そもそも、「もっとお金を得られる」ような、十分な能力があるかどうか自体が甚だ疑問なのはあるけれど。)


なので、「お金で不幸を迎撃する」のは、いまの未来予想図にある水準でなんとか頑張って頂きつつ。
あとは「自力で幸せを生産」せにゃならん。
「自力で幸せを生産する」ことを考えたとき、とりあえず「幸せ」とは「お金」じゃないみたいだ。


最近、自分にとっての「幸せ」が何なのか、ようやっとおぼろげながら輪郭がみえてきた気がしている。
ようは「喜怒哀楽のありよう」のようでして。


単純にいうと、


『喜楽 > 怒哀』


ってことらしい。


何を当たり前のことを・・って感じかもしれないけれど、意外とできない気がしているコレ・・。


「感情」が生まれることがまず大事で。
(決して、感情の起伏が激しい、とかいうい意味ではなく。その傾向も強いんだけど。。。)
どうもなんとなーく生きていると、感情が生じない無感覚な状態になってきやすい。不感症とでもいおうか。
豊かな感情実感があると、日々に活力が出る。
あと、意外と「怒哀」がないのも味気ないんだと思う。
「怒哀」から「気楽」へのふり幅が大きいほど、たぶん「生活実感」がわきやすい。


意外と単純で、意外と難しい、こんなことなのだなあとぼんやり。



若きあの頃の自分はチャリンコさえあればどこまでも行けると思ってた。


少し成長した自分は電車や飛行機で行くようになった。
金さえあれば海の向こう、どこまでも行けると思っていた。


そして気付いた。
必要なのは自転車や電車じゃなかったって。
行こうとする気力だったって。
無くしてから気付いた。


気力がないと、喜怒哀楽なんて生まれやしない。
ずっと平行線のままだったりする。



さあどうしてやろう。笑