孤独は、他者を意識した時に生まれる。
わからないけれど、
生まれたての赤ん坊に、孤独という認識はないのだろう。
孤独から生まれる感情もないのだろう。
「孤独でない状態」というのが、あるのなら、
それは、精神的/肉体的/物理的に、何らかのつながりがある状態を指すのかしら。
でも、今生きている人達は、皆、孤独だと感じる。
「会社教」(旧来の、日本的な企業文化)が崩れ、
「日本教」(戦中・戦後にあった、ある種のナショナリズム)も崩れ、
「総中流家庭」も崩れ、
信ずるものがなくなった日本人は、みな孤独に思える。
いま振り返れば、
オウム真理教は、この時代の孤独を先読みしてたのではないか、とさえ思える。
こんなに繋がっているのに、こんなに孤独な社会って、何なんだろう。
たぶん、
孤独は街にある。家にもある。
人と人の間にある。
人を取り巻くハード(ネットワーク化とか情報化とか)が進みすぎて、
うまい具合にバランスがとれていた、「パブリック」と「プライベート」が、
バランスを失ったのじゃなかろうか。
あらゆるシーンの「総パブリック化」とでも言おうか。
簡単につながれるが故に、簡単につながれれチャネルが、「パブリック化」する。
深く繋がれるはずなのに、繋がる事が「消費化」する。
結果的に、今の人間が得たのは、
繋がりすぎることによる時間の消耗と、
プライベートな面を晒す時間の減退。
全てがオープンになりすぎたために、
深く繋がることから遠ざかった。
そうゆうことなのかしら。