ふむ。
「みんなと同じではいたくない、」
――そんな、みんなと同じセリフ。
みたいな違和感なのだろーか。
最近の若い人に特有の(と言うと語弊があるけど)
ある種のナイーブさについてなんとなく考えていたからだ。
10代、20代の頃、自分が抱えていたやっかいなナイーブとは質がちがうみたいだなあ、と。気の利いたインテリアで統一されていて、有機野菜を使ったり、料理にもこだわりを見せつつ、
店員も客もみんなしゃれた装いできれいな顔をしていて、でもなぜだか軽薄な感じがする、
その軽薄さに自分たちでは気づいていないカフェのような。
そんな「鈍感な」ナイーブさ。鈍感さは若さゆえなのだろうか。それとも。それがわからなくて、というか、
まあ、わからなくても別にいいんだけど、なんとなく気になって考えていたのだった。当たり前のことだけれど、私と同世代の人が同じオブセッションに苛まれていたわけではないように、
その「ある種のナイーブさ」がいまの10代、20代にデフォルトのごとく備わっているとはまったく思わないが。自分のことも省みて、若い日の感傷は醜いと思う。
でも、そうだなあ、60歳以上かなあ、歳を重ねたうえでの感傷は、近頃なんだか胸に沁みる。
それは、こういう言い方はあまり好きじゃないけど、年月を重ねて熟成された味が人生にもあることが
なんとなくわかってきてしまったからだと思う。
でも「ある種のナイーブさ」の延長にはその味はないんじゃないかと思いますよ。言いすぎかな。じつのところ、いまも私は感傷的な人間だったりする。
若き日のそれ以上に、中年の感傷ほど醜いものはない。
いつか味のある感傷を吐ける大人になりたいものだ。
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